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「ここ、か・・?」
手元にあるチケットと看板の名前を見比べながら、俺は繁華街の一角にあるビルのアートギャラリーへと長い階段を上り始めた。
いかにも廃ビル一歩手前と言わんばかりの古ぼけたビルは期待を裏切らずにエレベーターなどはついていない。
手垢で鈍い色に変色した手すりには触らずに靴だけでカンカンと上っていくと、夏の気温にじわりと汗が滲んでくる。
「あっついなー」
手で汗をふきつつ、ケータイで着いた事を連絡するとすぐに「今行きます」という返信が返ってきた。
ぶるぶる震えるケータイについ足をとめて中身を確認すると少し安心してほっと息が漏れる。
深呼吸をしてまた次の段へと足をかける。
数段上がりかけた所で、上から声が降ってきた。
「木佐さーん!こっちです」
「もうちょい待って」
早く早くとせかす雪名にもう俺は立派なオッサンなんだぞと言いたいが、口に出す前に最上階まで上り詰めてしまったので飲み込む。
「オープンはまだ数日先なのにわざわざすみません・・・」
「いや、ちょうど近くまで来たから」
本当は抜け出すのも大変なくらいに職場は荒れていたんだけど。
久しぶりに会える雪名に頭がいっぱいになってしまって疲れもなにもかもいっぺんに吹っ飛んだ。
「ありがとうございます!」
熱気がこもってむんむんとしているはずなのに雪名はどこまでも広がる草原よろしく爽やかな笑みを浮かべた。
手を引かれてギャラリーに入ると、散々だった外装とはうってかわってキラキラふわふわと暖色系の壁紙で覆われた室内が広がっていた。
小さな飾り電球、出窓には真っ白いカーテンとぬいぐるみ、西洋人形からみごとな装丁の本まで女の子が好みそうなものがところ狭しと並んでいた。
さすが、雪名の個展だけあるよな。
日ごろからファンシーなものに囲まれている職場のこともあって、俺はそれほど躊躇することもなく雪名の世界に入り込むことができた。
「ディスプレイとかは大学の友達に手伝ってもらったんです」
「これを一人じゃさすがにキツいだろうしなー」
雪名の説明を受けながら、あちこちと内装を見ているうちにふと違和感に気づく。
個展なのに一枚も絵が無かった。
「あのさ、絵はまだ飾らないわけ?」
確かにすばらしい内装なのにどうして絵を飾らないんだろう。
というか、それよりも個展なのに絵が一枚も無いってどういう事態だよ。
オープン前でももう公開する予定の作品の配置ぐらいは決めてあってもいいはずなのに、家具や置物はすべて完璧な間隔で配置してあってどこにも絵を入れるような隙間は無かった。
唯一、部屋に入ってすぐ目に付く位置を覗いては。
「これから、描くんですよ」
待ってましたと言わんばかりに雪名が来ていたツナギのポケットから筆とパレットを、そして部屋の隅からは大きな白いキャンパスを取り出した。
「はあ?!今からって、間にあわねーだろ!」
「大丈夫です。ようやくモデルさんと都合がついたんですから」
さあそこに座って座ってと、どこからか小さな安楽椅子を取り出すと驚く俺を無理やりに座らせる。
「え?モデルって・・・」
「顔、動かさないで」
困惑する俺に指示を飛ばす雪名はもう『画家』の顔をしていた。
「少し、上を向いて・・、そう。上目遣いに。笑わないでください。無表情で」
「こ、こんな?」
「目はどこか遠くを見つめてください。ほら、また。笑わないで」
雪名の指示はとても具体的だったけど、俺にはそれをうまく表現する術が無かった。
それでもせっかく絵を描いてもらっているのわけだから、できる限り期待に沿おうとなんとか笑わないように気を引き締める。
でも、こうしてくれ、ああしてくれ、といわれる度に作家と一緒に作る漫画みたいに、雪名と一緒にひとつのものを作っているんだなという喜びが生まれてくる。
なんともいえない嬉しい気持ちが溢れてきて、一気に体の奥がむずがゆくなった。
笑っちゃいけないと言われているんだけど。
雪名が絵の具を溶いている隙にこっそり含み笑いしてみる。
どうせ気づいていないだろう。
「じゃ、続けますね」
用意し終えた雪名の合図で、なんとか顔の平静を保とうと悪戦苦闘がはじまる。
どれだけ我慢していたのかわからないが、ようやくOKの声が出た。
「・・・はい、おしまいです」
ありがとうございましたとだけ言うと雪名は、乾かすからさっさとキャンパスをどこかへ持っていってしまった。
「よーやく、終わった・・・」
椅子から立ち上がると全身の筋肉が強張っていて、モデルってのはかなり肩がこる職業なんだなと思う。
「それじゃ、ご飯でも食べに行きましょう」
「どこいく?」
そーですねえと考え込む雪名だったが、突然なにかを思い出したようにあ!と声をあげた。
「俺の個展なんですけど、やっている間は絶対にこないでください」
「どういうこと?」
「いろいろ大学の友達とか来るんで・・・」
ごにょごにょと言葉を濁す雪名は珍しかったが、サークルやらなにやらの兼ね合いもあるのだろう。
仕事も忙しいし、絵は終わった後にでも見せてもらえるだろう。
「わかったよ」
「お願いしますね」
了承を得ると、ころっと態度を変えてフレンチが食いたいですなんて急に暢気な姿に戻っている雪名につられるようにして、いつの間にかそんな絵のことも忘れていった。
数日後に、小さなビルの一角で個展が開かれた。
汚い外装とは別世界といってもいいほどに綺麗に装飾された内部は、連日訪れる人が絶えないほどに混雑していた。
ファンシーな室内に置かれた絵は一枚だけ。
安楽椅子に腰掛けた大人とも子供とも判断できないような青年の絵だった。
絵の中の彼は、体の内側から湧き上がる喜びを抑えきれないようにくすりと笑っている。
「限界ギリギリまで堪えて、ふわっと咲く花みたいな一瞬の笑みを描きたかったんです」
その一瞬を切り取るために日程もギリギリになっちゃったんですけどねと、個展の主催者はそんなことを後に語っていたらしい。
<11/08/18>
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