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今日は朝早くからお盆を迎える前の職員総出で行う大掃除に駆りだされていた。
本当はヒロさんと一緒にゆっくりのんびり過ごそうと思っていたけれど、生来頼まれたら断れない性格に加えて、やっぱり看護師さん達だけだと大変だし、病院の中でも自分は大柄で力もあるほうだと考えると、人手は少しでもあるほうがいいと参加を表明してしまったのだった。
半日という約束だったのに結局丸一日を使って掃除したおかげで、病院は見違えるようなきれいさをみせている。
「野分、悪いなー」
自分を最も熱心に引き止めた張本人である津森先輩は、少しも悪びれた様子もなく言った。
「いえ、掃除には人手が必要ですから」
「……お前さぁ、人良すぎるだろ」
本心からそういうと、先輩は呆れたようにそんなんじゃ上條さん苦労するなあと笑った。
出掛けにヒロさんは特に気にしてた様子が無かったけど、実は気にしていたんだろうか……。
うーむ、と考え始めた俺に気づいた先輩は、慌てて冗談だよとつけたした。
「それじゃ、せっかくの休日潰しちゃった埋め合わせと言っちゃなんだけど、倉庫で見つかったコレ、引き取ってもらえないか?」
「え?」
そう言って差し出されたのは、先輩が今の今まで小脇に抱えていた大きな箱だった。
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「それで、お前はえっちらおっちらそのでっけー箱を持って帰ってきたわけ?」
「はい」
先輩に渡された箱は、かなりの質量と重さを持っていた上に壊れ物だと言われたので、持って帰るのは一苦労だった。
やっとの思いで玄関まで持ち込んだのに、何事かとやってきたヒロさんの第一声は、「おかえり」でも、「お疲れさん」でもなく、「また変なもん押し付けられてきたのかよ」だった。
「なんだか壊れ物らしいですけど。リビングで開けてみてもいいですか?」
「……邪魔にならないようならいいけど」
いいでも悪いでもなく無愛想にそれだけいうと、ヒロさんはリビングに積んであった本の山を脇に寄せてスペースを作ってくれた。
それが終わると俺の横でヒロさんは読み途中の本を開いて再び読書の世界に没頭し始める。
礼を言って箱を下ろすと、すぐさま開封に取り掛かった。
床に置いたダンボールで出来た箱の表面は、長期間放置されて読めなくなったラベルが印刷されていた。
おそらく大昔にクリスマスプレゼントか何かのために買ったものをそのまましまったきり忘れてしまっていたのだろう。
「YAMOHA……?」
擦り切れた印字でなんとか読めたのはそこだけだった。
日あたりの良いところに長時間置かれているのはわかるが、もう少し保存状態をきちんとしていてもよかったのではないだろうかという思いがこみ上げてくる。
それでも、うっすらと見えるデザインはそう古いものではなさそうだ。
「たしかその会社ってピアノとか作ってるとこじゃねーの?」
読書していたと思っていたヒロさんが、目は本に向けたまま口を挟んだ。
「このYAMOHAが……ですか?」
自分の生活とほとんど縁が無いものの名前を言われてつい聞き返してしまう。
「電子ピアノとかからグランドピアノまで作ってる有名なメーカーだよ」
と、同時に変色して弱くなったセロテープを剥がした中から勢いよく中身が滑り出してきた。
「なるほど……、確かにヒロさん大当たりです」
言ったとおり、確かにそれは一台の電子ピアノだった。
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「うわ、かなりの年代物だぞこれ……」
切りがよくなったのか本を閉じたヒロさんは、出てきたピアノを興味深そうに眺めた。
俺もヒロさんが読書以外のものに興味を持つのは珍しいなあと思いながら同じようにピアノのほうに向き直る。
「わかるんですか?」
「ああ。この形ならうちの倉庫にしまってある古いヤツとおんなじだ」
懐かしいな、と男の人にしては細くて華奢な指がつるりとした光沢のある鍵盤に触れた。
俺はピアニストなんて人生で一度もお目にかかったことは無いけれど、なんともなしにピアニストの指ってこういう感じなのかなと思った。
「ヒロさんは以前にピアノを弾いていたことがあるんですか?」
「ああ。ずっと小さい時だけどな。今はもうほとんど指が動かなくなってるよ」
幼少期からいろいろと習い事をしていたという話は聞いていたが、水泳、書道と掛け持ちでこなすのはかなり大変だろう。
どれもやめられなくて自分を追い込んでたのはバカだって思うと言ってはいるけど、その甲斐あってかヒロさんの字はとても綺麗だし、意外と体力もあったりする。
「ピアノも弾けるなんて、やっぱりヒロさんはすごいですね」
「別に……。親がやらせてただけだから」
感動してつい褒めるとヒロさんは無愛想にそれだけ言って黙ってしまった。
ピアノをやっていた、なんて聞かされると演奏を聴いてみたくなるのが人の性。
「一曲、弾いていただけませんか?」
なんでもいいのでと提案したけれど、「もう弾けない」の一点張りであっさり拒否されてしまった。
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結局話し合った結果は、ヒロさんが弾かないピアノなんて、俺が当然弾けるわけもなく、そのまま部屋のインテリアとしてリビングの一角を陣取ることとなった。
「あー、俺が弾ければな……」
電子とはいえピアノだ。
高いお金を出して買ったものを一度も弾かないのは罰当たりのような気がしてくる。
「でも、上手くなくても音を出すくらいなら俺でも出来るかな?」
ためしに電源を入れて白いキーに手を乗せる。
ポーン……と、電気に作られたと言っても澄んでいる音色が部屋中に響き渡った。
調子に乗って、もうひとつふたつとキーを叩くとこれが意外と楽しい。
夢中になって叩いていると、ふいに書斎にこもっていたヒロさんが顔を出した。
「また、そんなので遊んでるのか」
「すみません。うるさかったですか?」
「そうじゃないけど……。ぽんぽん音を出されるとやっぱ気になる」
「あ、ごめんなさい。よくわからなくて適当に弾いてしまって」
「はじめは誰でもそうだろ。弾きたい曲あったら楽譜でも買ってくれば?」
「そうですね……、ってヒロさん?」
苦笑いする俺の脇をすいと通り抜けて、ヒロさんは突然ピアノの椅子に座った。
「あ、あんまりお前がうるさいから、一曲だけ弾いてやるよ」
驚く俺の返事を待たずして、ヒロさんの華奢で白くて女性みたいな指は鍵盤の上におかれ、一呼吸してから曲が始まった。
十本すべてが意思を持ったように動き、流れるように音が運ばれる。
その旋律はとてもあたたかくて、でも少しだけ悲しみを内包しているような、ヒロさんそのものだった。
音響設備なんてお世辞にも整っているとはいえないようなマンションの一室だったが、ヒロさんの音色は堂々と俺の鼓膜と心を深く揺さぶった。
なんて透明で美しい音色の音なんだろう。
指が動かないなんてとんでもない。
ずっと聞いていたいくらいにすばらしいですよ。
頭の中の楽譜を思い出しながら弾くヒロさんを邪魔しないように、心の中でだけそっと感想を伝える。
曲はそれほど長いものではなかったようで、低い音から高い音まで綺麗に順番に弾ききったところでゆっくりとヒロさんが手を鍵盤から離す。
ふわん、と音の余韻を残して、部屋が静寂で満たされた。
「……すごい」
俺はもうとにかく感動してしまって、隣近所のことなどお構い無しに手を叩き続けた。
「ヒロさん、とてもお上手だったんじゃないですか!」
「そんなことねーよ。こんなの練習すれば誰でも出来るし……」
「いいえ、この音はヒロさんにしか作れません。こんなすばらしい演奏が聴けてよかったです」
だから、もう二度とどこの誰にも聞かせないでくださいね?
泳いでいる目をしっかり見つめてそう告げると、
「う、うるせーよ!当たり前だろ」
ヒロさんは真っ赤になって俯いてから、もう一曲、弾いてやらなくもねーけど、と言ってくれた。
「じゃあ、お願いします」
俺がソファに深く腰掛けるのを見届けると、不器用で照れ屋で優しい俺だけのピアニストさんは、静かに演奏を始めたのだった。
<11/08/11>
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