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「ヒロさん、おはようございます」
珍しく俺のバイトとヒロさんの大学が休みの日。
俺はこっそりヒロさんの家に入ると彼を起こさないように朝食の支度をする。
無理やり頼み込んで家庭教師をしてもらってからもう数ヶ月経つ。
乱暴な言葉とは裏腹にヒロさんの教え方はとても丁寧でわかりやすいものだった。
俺の学力はめきめき向上し、念願の志望大学も一つランクが上のものを狙うことにした。
全部ヒロさんのおかげだ。
だからせめてものお礼として腕によりをかけた朝食を作っているというわけだ。
「……のわき」
書斎に山ほど積まれている崩れた本の一角からかぼそい声がする。
「あ、起きましたか!ご飯食べられます?」
味噌汁に味噌を溶かしながら返事をすると、声の主は「食う」と呟いた。
備え付けのグリルから魚の焼けるいい匂いが漂ってくる。
買ったきりほとんど使っていないと言っていた炊飯ジャーのご飯もうまく炊けているようだ。
ご飯、味噌汁と焼き鮭をテーブルに並べていると、ばさばさどさどさと本の山がなにやらうごめきはじめる。
あちらこちらと本をかき分ける音を席に着いて待つことにした。
……が、いくら待っても当の本人が出てこない。
恐る恐る声をかけてみる。
「ヒロさん。ご飯冷めちゃいますよ?」
「悪い、先食って、て……」
力無く持ち上がった手がひらひらと振られた、と思うとぱったりと倒れる。
それっきり本の山はうんともすんとも言わなくなってしまった。
「ヒロさん?ヒロさーん」
返事が帰ってこないことに心配になって、辞書みたいに分厚い全集の山をすこしずつ解体することにした。
一冊、二冊……、途中で数えるのもイヤになるくらいに本をどける。
「あった!」
しばらく本と格闘してようやく先ほど振っていた手を発掘した。
それをぎゅっと握ると微弱ながら握り返された。
よかった。どうやら生きているらしい。
その手を頼りに付近の本をのけていくと、足二本と胴体が出てくる。
ぺろんと捲れたシャツから出ているお腹を撫でると「ぎゃっ」と悲鳴が一つ。
声がしたあたりの研究書をどかしながら、宝探しのようでなんだか妙に嬉しくなってしまう。
「ヒロさん、みつけた!」
『パンダはどうして笹を食べるのか』というタイトルの本の下からようやく待ちに待った顔が出てきた。
「……ったくお前は、普通に探せないのかよ?」
なんとかでてきた顔は声と同じく不機嫌極まりないといった様子で俺を詰る。
押し花のようにぺしゃんこにされてしまったせいでヒロさんの頬には本のカバーの赤い跡がついていた。
「すみません」
困ったような笑みを浮かべて謝ると、溜息をひとつ吐いてヒロさんがゆっくり起き上がる。
ヒロさんの集めている文献はどれも貴重で、古本屋からの物も多いので、大半の書籍が埃を被っている。
せっかく掃除した床も本の散らばる付近は白くて細かい埃で覆われてしまった。
「くそ、顔中埃まみれだ。……洗ってくる」
ぱんぱんとあちこちはたきながらヒロさんは洗面所の方へと歩いていった。
ふと、落ちている一冊が目に入った。
その本はなかなか見つけられなくて、ヒロさんが何軒も何軒も古書店を探し回ってやっと見つけた本だった。
かなり古い作家が書いているらしく、もう絶版になってしまっていたものだ。
「俺がこの本だったらいいのにな……」
しゃがんでその本を手に取ると、薄汚れてぼろぼろになったカバーを見ながら独りごちる。
探して、探して、それでも無くて、やっとの思いで見つけた一冊。
ヒロさんの中の俺もそうであったらいいのにと思ってしまう。それは贅沢な悩みなのだけれど。
大好きなヒロさんが探して、探して、やっと見つけたこの本みたいに。
俺のことも探して、探して、必死で見つけてくれたらどんなにか幸せだろう。
感傷に浸っていると、ふいに背後からにゅっと手が出てきた。
「う、わ!」
「……なにやってんだ?」
ヒロさんの手はひょいと俺から本を取り上げるとぱたぱた埃をはたいた。
「この本に、なりたいなーって……思いまして」
「はぁ?」
案の定、ヒロさんは何言っているんだ?とばかりにいぶかしげな表情だ。
「そしたら、ヒロさんが一生懸命古書店巡って探してくれるかな、そうならいいのになーって……」
「お前……、バカなのか、頭いいのかそろそろはっきりしてくれねーか?」
対応に困るんだけど、とヒロさんは苦虫を噛み潰したような顔をして、一語一語搾り出すように言った。
「ええと、はい。……すみません」
謝ると同時に我ながら呆れるほどにわけのわからないことを言ってしまったなと軽い後悔が襲ってくる。
本になりたい、だなんて。
俺じゃなくても言われれば返答に困る。
ヒロさんも俺もそれっきり黙ってしまい、書斎に静寂が満ちた。
「……あのさ」
しばらくして、ぽつりとヒロさんが口を開いた。
「べつに本なんかにならなくたって、……俺はお前をどこまででも探すから」
くだらねーこと考えてんなよと言い残してヒロさんはさっとキッチンの方へと歩いていってしまった。
「…………」
形容しがたい気持ちがせりあがってきて、俺はとっさに何も言えなかった。
嬉しいとも愛しいとも少し違う。
この気持ちは何だろう。
「野分、飯が冷めるぞ!」
少し怒ったような声に急かされて慌ててキッチンへと足を向ける。
几帳面に俺が席に着くまで待っていてくれる優しい人に出会えて本当によかった。
<11/07/24>
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